このところ、田植えの準備で、ひたすら土を耕す毎日を過ごしていました。
実は今年、長年の夢がかなって、田んぼをお借りできることになりました。そこにはいろいろな偶然が働いていて、非常に面白い、ワクワクするような展開でした。1反弱のその田んぼは、しかし正式に使えるようになるのが5月からだったので、作業が全体的に後ろにずれてしまわざるをえなくなりました。
いろいろ考えた末に、とりあえず基本的なやり方で行なってみることにしました。とは言っても、機械は草刈機しかありませんし、数百万円する機械を複数購入するような資金もありません。昔の人は皆手作業だったんだからと開き直って、鍬一本で、コツコツ耕すことにしました。いきなり全部は無理なので、田んぼを四つに区切って、一区画から始めてみることにしました。
でも……実際にやり始めてみると、全然前に進みません。いくらやっても目の前には広い土地が広がっていて、気が遠くなってしまいます。だから、先を見ずに、一鍬、一鍬、自分の動きに集中して作業を行うことにしました。
どうしたら重力と仲良くなれるか、どうしたらテコの原理がうまく働いてより軽やかな力で動かすことができるか、無駄な力をどうしたら省けるか、どうしたら土が喜ぶか……そんなことを考えながらコツコツと鍬を入れていくと、どこからかキジの声が聞こえ、鶯も爽やかな歌声で鳴いてくれます。近くの畑の人たちも、そばを通りながら声をかけてくれます。そんな中で、一心に作業をしていくと、いつの間にか心が静かに落ち着いて、まるでメディテーションを行っているかのような不思議な感じに満たされるようになっていきました。そんな時間の中で、最近読んだ本の中の素敵な言葉をふと思い出したのです。
その言葉とは、オランダ人の人智学者ベルナード・リーヴァフッドさんが『人間と大地における惑星の作用と生命プロセス』という本の中で、書いていらっしゃる次の言葉です。−−−−「真に肥沃な土壌は植物になろうと憧れている。」
初めて目にした時には、思わずうなってしまいました。
もしも植物になろうと憧れているような土壌を準備することができたなら、そこに種子を蒔いた時に周りにあるすべての力が種子に向かって働き、種子は発芽することができる、そう書いてあるのです。
種が芽を出すということについて、このような芸術的な表現はそれまで目にしたことがありませんでした。心が強く動かされました。
鍬を振り下ろしながら、その言葉についてじっと考えていると、その言葉のうちに、農業の核心があると感じられるようになってきます。
PH値を測ったり、C/N比を考えたり、積算温度を考えたり、草の刈り方を考えたりと、とにかくいろいろなテクニックや考えるべき事柄が、農業の中にはあります。でも、そんな技術的なことよりも前に、どうしたら土が植物になりたがるだろうかと考える方が、とてもシンプルで、しかも深い意味があるように感じます。どうしたら、植物になりたいという土の願いを生かせるだろうか、土に問いかけ、土の声を聴きながら、畑を耕していると、いつの間にか願いや祈りのような気持ちが湧いてくるように感じました。それは、「謙虚さ」という言葉でも表すことができるかもしれません。
私は思うのですが、人間は、自分の手を使って仕事をすると、謙虚になれるのかもしれません。自然はあまりにも偉大で、それに比べて自分一人の力はあまりにもちっぽけです。それがはっきりと感じられるようになると、自然を征服しようなどというおこがましい考えではなく、自然の力を借りて、その営みに一緒に参加させてもらえたら、というような感じにシフトしていくのです。
「謙虚さ」というのは、私たちが目指す教育にとっての大切な要素でもあります。
15世紀以降の現代文明は、自然を征服し、支配することで成り立ってきたように思います。たくさんの知恵と思考を使って、人間がより便利に、より楽になるようにさまざまな発明をしてきました。でも、その反面、自然に対する謙虚な気持ちは、すっかり忘れ去られてしまっているように感じます。
自分はこれだけのことしかできない。でも、その力を使って、自然の中にある偉大な力と協働して、何か世界のために役立つことをしていこう。
コミュニティで働く大人たちが、そのような謙虚な意識を持って働いていれば、そこにやってきた子どもたちも、同じように育っていくでしょう。そんな大人たちのムードこそが、子どもたちにとっては、「植物になろうと憧れている土壌」なのかもしれません。
自然の中に働く目には見えない存在や力たちを敬いながら、共に働くために汗を流す。そんな大人たちの共同体の中に、子どもたちを迎え入れたい。
せっせと田んぼを耕しながら、そんなことを思っている今日この頃です。
2023年6月10日
栄 大和