エクストラレッスンのご案内
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2 どんな学校?

「学校」という概念に伴うさまざまなイメージがあります。

 

 例えば、一つの教室の中で向かい合っている一人の先生とたくさんの子どもたち、教室に貼られた目標や時間割、ずらっと並べられた同じ形の机と椅子、四角い教室、無機質でひんやりとした長い廊下、校庭にひしめき合って遊ぶ子どもたち、大きな音量のチャイムや校内放送、テストや入試のための勉強……などなど。

 

 時代は変わっても、学校は昔のまま……そんな声を保護者の方々からよく聞きます。

 

 前回お伝えしましたように、私自身は、そのような学校という環境の中で、何となく違和感を感じ続けてきました。門をくぐって中に入ると、何か目には見えない圧力がのしかかってきて、押しつぶされそうになる。でも、しばらく過ごすうちにそのことに慣れ、いつの間にかその中にいることに安心感のようなものさえ感じていたりもする。でも、その圧力はずっとそこにあって、気づかないうちに、自分を少しずつ疲弊させていく……。

 こうやって今思い出しているだけでも、なんとなく気持ちが重くなってしまいます。一体その原因は、どこにあるのでしょう。

 

 ここで少し話を変えて、音楽の話をします。

昨年末に、あるご夫婦のご自宅にお邪魔する機会があり、そこで何十年かぶりにレコードを聴かせていただきました。大きなスピーカーを通して流れてくるビートルズやヴィヴァルディの音楽は、とても暖かく、柔らかく、体全体がふんわりと包まれるような感じがしました。耳に優しい、心をゆったりとさせる響きがそこにはありました。

 時代の変遷とともに、レコードからカセットテープになり、MDが登場し、それがあっという間にCDにとって変わり、いつの間にかMP3の音楽をパソコンやスマートフォンから聞く時代になりました。ノイズはなくなり、くっきりと輪郭が感じられる「美しい」最近の音。でも、しばらく聞いていると、耳が痛くなり、疲れを感じてしまう音。

 自分で楽曲を制作するようになってからより具体的に理解できるようになったのですが、CDMP3などの現代の音楽は、ノイズや歪みがカットされ、人間の耳には聞こえない高い周波数や低い周波数の音もカットされているのです。ですから、今の音楽は、とても「美しい」音になるわけです。

でも、一見“雑音”に聞こえるたくさんの音があるおかげで、全体として優しい、空気感のある音が形成されます。「効率」という観点からは切り捨てられるものであっても、そこには何かしらの大切な存在意義がある、そう思うのです。

 

 「学校」という組織は、ある意味、効率的な場所として作られてきたのだと思います。多くの子どもたちを一定の教育目標に向かって育てていくためには、ある程度の基準が必要ですし、それを達成するためのさまざまな環境や条件が必要となります。それは、日本が「近代国家」になり、経済成長を達成していくためにはふさわしいやり方だったのかもしれません。でも、時代が進むにつれて、そのシステムに当てはまらないたくさんの子どもたちを生み出す原因にもなってしまっているだと思います。

そのような子どもたちを、学校は決して切り捨てようと思ってきたわけではないのでしょうが、現実的には、まるで耳には聞こえない高音部や低音部のように、美しい全体のためには、何か対策を考えなければならない「問題のある」部分だと捉えてしまうムードが生まれてしまうことにつながったのかもしれません。

 

 翻って、畑の土の中の様子を考えてみると、そこにはたくさんの生き物が見られます。「人間の役に立つ、立たない」の尺度では単純に測りきれない世界がそこにはあります。

 シュタイナー学校で8年生を送り出し、奈良に引っ越してきた頃、私たちは歌姫の畑に出会いました。そこで私たちを笑顔で迎えてくださったのは、その地で20年以上天然自然農法を研究・実践していらっしゃった阿藤さんと奥様の京子さんでした。

 1年間ほぼ毎日のように畑で過ごさせてもらいながら、私たちはたくさんのことを教えていただきました。その中の一つに、「この世に無駄なものはない」という大切な言葉がありました。

台所で出る生ごみも、お米を精米するときに出る米糠も、剪定業者が捨てる木端も、鹿苑にたまっている鹿のフンも、決して無駄なものではない。それらを大切に使うことで、畑の土は豊かになり、その中にいる微生物たちの世界もより生き生きとしたものになる。

阿藤さんの言葉を伺いながら、私は学校にいる子どもたちの姿を思い浮かべていました。「どの子にもかけがえのない個性が宿っている」————よく耳にする言葉でしたし、自分自身も何度も口にした言葉でした。でも、自分自身が本当にその言葉を実践してきたか、そのことに真剣に取り組んできたか、と問うてみた時、胸を張って首を縦に振ることはできませんでした。

 

 今、阿藤さんとの日々を思い浮かべ、その生きた言葉の数々を噛みしめています。

 一人ひとりの子どもたちの個性が本当に生き生きと輝いていける場所としての学校。そのイメージは、「ちょっと大きな家族」です。

 

子どもたちがいて、おじいちゃんやおばあちゃんもいて、おじさんやおばさんも同じ場所にいる。その中で、大人たちはそれぞれの仕事〜例えば、畑仕事、調理、保存食作り、編み物や縫い物、薪割りだったり、絵を描いたり、器を作ったり、お芝居の稽古をしていたり、文章を作っていたり、音楽を奏でていたり等〜に一生懸命取り組んでいる。子どもたちは守られた環境の中で、自由に遊び回り、生き生きと学ぶ。ときには喧嘩をしたり、またときにははしゃぎすぎて叱られたり、そんなふうにしながら、そこにいる大人たちと会話をし、仕事を手伝い、みんなのために働くことに喜びを感じるようになる。そんな子どもたちの周囲には、地水火風や鉱物界、植物界、動物界がごくふつうに存在していて、移りゆく季節の中で、子どもたちを守り包んでいる……。

 そこにいる大人たちは、やってくる子どもたちのことをみんなで見守り、考え、その成長を支えていくために、話し合い、より良い環境となれるように努力していく。

 自然のリズムがあり、一日のリズムがあり、集中する学びの時があり、のびのびと過ごす拡散の時間がある。そして、誰もが両手を大切に使って、誰かのために働いている。

 

 そんな「ちょっと大きな家族」のような「小さな学校」が全国のあちこちに、そして世界中のあちこちにでき、お互いが交流し合い、支え合い、世の中をより良いものにするために努力している。そんな世の中になれば、きっと子どもたちは、自分の中にある宝石を世界のために輝かせることができるでしょう。

 あと30年後、50年後、そして100年後の世界が、そんな場所になれるように、私たちは、小さな、でも確かな一歩を踏み出そうとしています。

 

 

 

2023210

栄 大和

 

ならまちの”Respect”での読書会も始まっています!

一昨日は第4回。美しい梅の香りが漂う中、それぞれのビジョンを出し合いました。

ご興味のある方は、下のリンクから情報をチェックしてみて下さいね。

 

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